市川歯報 1996年号 
       「タイ国スタディーツアー95」 父との旅行記

日本は雪、真夏の国”タイ国”へ
 3月3日金曜日、今にも雨か雪が降り出しそうな夕刻、天気予報によれば今夜から明日にかけて雪!
 これから私たちは真夏の国タイ国に出発する.成田空港、出発カウンタ−にて,荷物は3人でゆうに
100キロは越えているはず.いそいそと荷物を預け、そのまま何とスム−ズにチェックイン.
超過料金を取られずすんだ。

 Sさん、私達父子の3人旅はこうして始まる。Sさんが代表をつとめるNGOボランティアグループの
スタディーツアーとして、タイ国をおとずれる。今回の第一の目的は
東北タイにある小さな村の小学校に図書館を建てるプロジェクトを進めることだ。
 このツアーは年2回催され、今回で7回目にあたる。変わりつつある都会バンコク、
多くの問題をかかえる農村、タイ各地を訪れてさまざまな面から人々の生活、
考え方を理解しようという趣旨で企画されている。いつもは7〜12人ぐらいの参加者があるのだが
今回は代表のSさんと私達親子の3人だけ、荷物運びや、現地の商品買い付け、記録等、
役割分担は多いものの私達親子にとってタイ語堪能で現地の地理、歴史に詳しいSさんによる
専属旅行添乗員つきみたいなもの、なんとも贅沢な旅行である。
 前述の重い荷物は持参するノートやえんぴつなど文房具、絵本などだ。

TG673便にて一路バンコクへ.
深夜到着したバンコク国際空港、荷物を受取り外にでると前回お世話になった
チャロムさんが迎えてくれた.

クロント−イ.プラティ−プ財団
 3月4日
バンコクのクロントーイ、スラム、この違法居留地区にプラティープ財団がある。
この地区で生まれ育ったデュアン プラティープさんは小学校卒業後,船底の清掃等の仕事を
しながら夜間中学、高校を出て教員の資格を取り、スラムの子供達に一番必要な物は教育であると考え、
働きながら16才でスラムの一角で託児所を開いた。
当時の政府の執拗な立ち退きがあったにもかかわらず託児所は、現在では政府の理解と援助を得て
大きな小学校へと発展していく。アジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞を23才の若さで
授章した彼女は、その十数年後日本のボランティア団体の秦さんと結婚する。

  さて、この財団にて里子たちに会う。  コイちゃん、クンちゃん、イーポンくん、ブンヤリット
くんお土産をもらって嬉しそう。その後、Sさんはコイちゃん、父と私はブンヤリット、イーポンくんと
それぞれの里子の家を訪問。ブンヤリットくんの家は板切れとトタン板を打ち付けただけの簡単な家。
この辺のあたりまえの家だ。2年前の秋、私の家族で訪問した時と全く変わっていない。
4畳ほどの広さに親子3人で暮らしている。
 父の里子イーポンくんの家は線路ぎわの家。たまたま家の目の前、たった1メートルのところを
大きな振動とともに30両ほどのタンク車を引っ張ったディーゼル機関車が通った。
父も私もびっくり。イーポンくんの両親は線路の脇で屋台の食べ物屋を営む。
お母さんはいつもニコニコ「ご飯たべていって」と言ってくれる。時間がないので残念ながら失礼した。

  夕刻、オリエンタルホテル ベランダバーにてチャオプラヤ川の夜景をみながらカクテルを楽しむ。
さらに対岸のサラリーナームにてタイ舞踊を観ながら王宮料理をいただく。タイ国の一番贅沢な部分を堪能した。
 帰りは「渡し船の旅」をシャングリラホテル経由で楽しむ。街のネオンサイン、
木々につけられた飾り電球が川面に映りなんともロマンチックな風景。
オリエンタルホテルからの帰りはトゥクトゥクと呼ばれる超小型三輪タクシーに乗りナイトバザーへ。
けっこう飛ばすので父は苦笑い。深夜 ホテル着

翌日 エメラルド寺院、ワットポー見学、豪華絢爛の寺院に歴史と信仰の深さを感じる。

東北タイ、コーンケンにて
 夕刻 バンコク国際空港着よりTG52便にて一路コーンケンへ。スムーズな飛行であっと言う間に到着。
Sさんの友人現地特産品のお店プラタマカンの息子さんが5才くらいの女の子を連れて出迎えてくれた。
 プラタマカン到着家族みんなであたたかく迎えてくれた。そのままお母さんたちに誘われお粥屋さんに
夕食をごちそうになる。美味しい。

私の父について
 日本食党でタイは初めての父、一昨年の米不足の節、「あんなまずい米は食えん」
とあんなに嫌っていたタイ米をけっこう美味しそうに食べる。やはり、料理のしかたや
組み合せがその地方の米に合っているのだろう。たしかにラーメンの麺でざるそばをしたら
あまり美味しくないだろう。父がこの国を気に入ったもう一つの理由は人々が素朴で優しいからであろう。
人々は老人と子供にとりわけ優しい。父は老人と言われるのが好きではないが、八十一才である。

コーンケン大学
 翌日 コーンケン大学を訪問する。  移動図書館の事務所にてアジア子供教育センター所長の杉浦さんと会う。
後日お目にかかるコーンケン大学社会人類学教授ユーピン先生と共に、これから訪れる
ウィティヤカーン小学校に寄付する図書館についてご指導いただいている。
今回その学校側の受け入れ体制について、調査をしていただき特に問題ないとの結果をいただいた。
また、今後、図書室運営の為の小学校の先生たちの指導も数年間にわたりお引き受けいただけるとの事。
建物や本のこと以上にその管理運営の難しさを感じる。
我々のプロジェクトが有効に役立つ為の重要なソフトウエアーだ。

 ローイエート・バーンコーク小学校
 荒れて乾燥した、ほこりまみれの田園地帯を一路バーンコーク小学校にむけドライブ。
田は、あちらこちらに白く岩塩がふいている。山間部の無計画な森林伐採による洪水で、
肥沃な土壌は毎年流され、ほこりと塩が残るらしい。
3時間ほどでローイエート・バーンコーク小学校到着
 130人の子供たちと先生、村長はじめ村の主だった人たちが暖かいまなざしで迎えてくれる。
前夜から興奮して眠れない子供たちもいたとか。校長先生、教頭先生、 Sさんの挨拶、
ついでに父と私も挨拶をした。続いておまちかね手品ショー、歌、そして持参したノートと
筆記用具を一人ひとりに配る。
 カメラとビデオの撮影も今回3人だけのツアーなので忙しい。 子供からの感謝の歌と挨拶で締めくくられた。

 その後、教員室にて図書館の設計図についてお互いに確認された。十数人の人達が立会いのもと
用意した89,000バーツは校長先生、教頭先生、村長そして村の長老の4人に渡され管理される事になった。
記念撮影をし皆に手を振られながらバーンコーク小学校を後にした。帰り道、
コーク村のお寺に寄進するために立ち寄る。
 お寺は村の中心であり役所、教会、集会所 の機能をする所だそうです。
お坊さんにお祈りしてプロミスブレスレットをしていただく。
夕刻 コーク村を出発 左手に沈みゆく美しいタイの夕日を見ながら帰路につく。何と美しいこと!

国境の町
翌日、コーンケンのホテルを出発し、古代遺跡発掘の村、バーンチェンに立ち寄る。
 発掘現場の保存館では紀元前5000年の人骨や壷、瓶がじかに見られた。
我々の車はは、少し木々が多くなってきた道を北に進む。いくつかの村を通過するとき、
ニワトリの行進や、水牛が我がもの顔に道路を渡るのをみることができる。半日のドライブで、
我々はラオスとの国境の町、ノーンカイのホテルに到着。 ホテルの窓から眼下にメコン川、対岸はラオス。
1キロ程先には、昨年新しくできた国境を越える橋を見渡す。

 翌日、地域の村々で織物指導プロジェクトを行い、たくさんの人々に仕事の機会を与える指導を
しているスバンさんご夫妻に会った。彼らはタイには少ないクリスチャンで英語が堪能だった。
 国境の渡し船の発着場ターサデットと周辺を観光した後、スバンさんのお店からプロジェクトの村に向かう。
サングサ村にてプロジェクトの実態を見せていただく。
 スバンさんらは、この村に昔から伝わる技術を継承し産業としてなりたたせるよう日々、
努力されている。紡ぎ、模様つくり、染色、機織とすべてが村の中で分担して行われるようすを
見ることが出来た。

垣間見る
このスタディーツアーを通してタイ国のさまざまな面をほんの少しづつ垣間みることかできた。
タイ国は統計の上ではアジア諸国の中で近年まれにみる高度成長を成し遂げた国である。近隣のラオス、
カンボジアと比較しても歴然とした差がある。しかし、私は、この「経済成長」について我々先進国(経済的に)
の尺度、価値観をもって比較していたことにいささかの誤解をしていたことに気づいた。
異国の人々や文化に触れるとき、たいていの場合、私たちはそれらを理解しようと意思の疎通をはかる努力をする。
今回の旅行では、その意思の疎通ための共通語(言葉だけではない)、あるいは価値観を無理矢理におしつける
ことによって、失ってしまうなにか尊いものを理解してかえりみる機会を得たような気がする。

 戦後の復興を築き、支えてきた世代の私の父と共に、かつては遥か彼方であった異国の人々や、
文化について考える時間がもてた、とても実り多い旅行であった。
   今、あの旅行から1年がたち、バーンコーク小学校の図書館も無事に完成し、村をあげての歓迎式典が行われたという、
図書館の写真の載った新聞記事をみてはなつかしく思うこのごろである。 1996.1